個人的な中学受験の意味シリーズの2回目です。
「親の敷いたレール」といった表現があります。確かに中学受験は親の考えが色濃く出るものだと思います。子供が自発的に中学受験を志すこともゼロではないのでしょうが、親の誘導的要素がゼロのケースは少ないように感じております。
例えば子供が医者に憧れた場合はその夢を応援すべくサポートするのは珍しくないでしょう。ではお笑い芸人に憧れた場合も同じようにサポートするでしょうか?おそらく実現可能性や夢が叶わなかった時のリスクなどを考えてサポートをしない親が多いと思います。子供は多くの職業に憧れや興味を持ちますが、その中で親が応援する職業は限らてしまうケースが多いように思います。
賛否はあると思いますが、個人的には至極当然な流れだと思います。リスクを少なくし、選択肢の多い道を選んであげるのは親心として十分に理解できますし、自分自身もそう考えています。中学受験もその延長で選択した道であると認識しております。
親の意向が少なからず入っている中学受験をさせる。遊びの誘惑を我慢させてハードな勉強をさせる。それを「親の敷いたレール」と捉える人もいるでしょう。その気持ちは痛いほど分かります。もちろん遊びとの両立をしながらストレスの少ない受験をする家庭から教育虐待のような家庭まで様々なケースがあるので、一概に『子供がかわいそう』とくくるのは違うと思いますが、それでもハードな日々を送らせているのは間違いないと思います。
ただ我が家では「レールを敷いている」という意識は極力持たないようにしています。親が準備をしているのは「滑走路」と考えるようにしているのです。レールと表現するといい意味では「目的地へ導く」となりますが、悪い意味では「没個性的で不自由」となりかねません。でも「滑走路」と捉えると目的は「将来自由に羽ばたくための準備」となるように感じています。
大空に飛び立つまでに3000mの滑走路が必要なお子様もいるでしょうし、1000mで十分なお子様もいると思います。自分の子供がどれくらい必要としているかが分からないからとりあえず親が十分な滑走路を準備する。ハードな受験塾に入れることってそういうことだと考えています。
十分な距離の滑走路を準備しても、斜めに進んでしまってはすぐに滑走路から外れて離陸できなくなるかもしれない。そもそも滑走路があっても勢いよく助走をつけないと当然に飛び立つことができません。なので親が伴走して軌道を調整したり、声掛けをして十分なスピードの助走を取るようにサポートしている。少々強引な例えかもしれませんが、とりあえず我が家の認識はそんな感じであります。
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